ドウエル教授の首

[題名]:ドウエル教授の首
[作者]:アレクサンドル・ベリャーエフ


 ソビエト連邦時代のロシアにおける偉大なSF作家ベリャーエフ氏の、医学・生命科学を扱ったデビュー作です。日本ではジュブナイル版が『生きている首』/『合成人間ビルケ』などのタイトルで抄訳されており、学校の図書室で読まれた方も多いのではないでしょうか。
 作品の初出は一九二五年とされ、先に短編版があった模様ですが詳細は不明です。長編小説として出版されたのは一九三七年と思われますが、いずれにせよSF黎明期における古典的名作であることには疑いありません。

 苦学生を経て医師の資格を得た若き女性マリイ・ローランは、病弱な母を養うため医学者ケルン教授の助手を務めることになりました。
 ケルン教授は執拗に秘密を漏らさぬようローランに念押しした後、彼女を研究室に通します。そこには、四角いガラス板に乗せられ、繋がれた幾本もの管によって生かされた、男性の生首が置かれていたのです。
 ローランはその首が、先日亡くなった高名な医学者ドウエル教授のものだと悟ります。ドウエル教授は死後間もない体から切り取った諸器官を復活させるという実験で有名であり、ローランも公開講義に一度ならず参加していたためです。
 ドウエル教授の助手を務めていたケルンは、病死に際してドウエル教授の首から上だけを復活させたのだと言い、その存在を決して誰にも明かさぬこと、そして首に繋がる管の開閉栓は命に関わるため決して開けないことをローランに強く命じます。
 ローランに与えられた仕事は、ドウエル教授の首の世話でした。ドウエル教授は言葉こそ発せられないものの意識はあり、目の動きや瞬きである程度の意思疎通はできます。
 ある日、ドウエル教授は目の仕草で開閉栓を開けてくれるようローランに頼みました。教授の首が死んでしまうことを恐れるローランは躊躇しますが、そうならないことを保証するドウエル教授に押され、ついに開閉栓を開けてしまいます。すると、管から空気が口の中へ流れ出て、ドウエル教授は言葉を発することができるようになりました。
 ドウエル教授の語るところから推察するに、今なお首が延命させられているのは教授の医学的業績をケルンが横取りするためでした。また、ドウエル教授の死因すら、病死ではなくケルンによる毒殺の疑いがあります。義憤に駆られるローランですが、ドウエル教授はケルンに対する復讐心はなく、せめて進行中の実験が一段落するまではケルンを告発しないようローランに願います。
 そうするうちに、ケルンの研究室に新たな死体が二体運び込まれ、ドウエル教授と同じように生首だけで蘇生させられました。一人は労働者の男性トマ、もう一人はバーの女性歌手ブリーケでした。蘇生した二人は首から下がないことに驚き、嘆きましたが、特にブリーケの悲嘆は酷く、ケルンに他人の肉体を自分に繋げてほしいと願います。それが実現できれば、ドウエル教授から盗んだものだけではない自分だけの手柄を手に入れられると考えたケルンは、ブリーケの願いを聞き入れることにします。
 そして、悲惨な列車転覆事故により、若い女性の死体を手に入れたケルン。ドウエル教授の秘密を知ったローランを脅迫して助手にし、死体をブリーケと繋ぎ合わせる手術を行い、無事成功させます。しかし、ブリーケは研究室に拘留されていることに嫌気が差し、脱走してしまったのです。
 全てを自分の手柄にしようとしたケルンの奸計は、ここから狂いを見せ始めます。

 本書の注目ガジェットは、首から上の蘇生です。
 ドウエル教授は元々、犬の首を蘇生させる実験に成功していたものの、未公表でした。ドウエル教授の死後、ケルンが教授自身の首を使った人体実験を行い、その成果を横取りしようとしたわけです。
 首は死体から切り離された後、切断面を特殊な液体で処理され、動脈と静脈に繋いだ管から《ドウエル217》と呼ばれる調合薬(人工血液?)を送り込むことで蘇生されます。(ちなみに、《ドウエル217》はケルンにより《ケルン217》と改名されています(^^;))
 また、生命維持には直接関わらないものの、喉の下には空気を送り込む管が繋がれ、これにより声を発することができるようになっています。この空気は当人の意思とは無関係に、常時送り出されているようです。声がうまく出せるかどうかはともかく、全く息継ぎなしに一曲を歌い切ることができそうですね(笑)
 なお、「犬の首から上を蘇生させる」という実験は、一九二〇年代にソビエトの生物医学研究者セルゲイ・ブルコネンコ氏が行っています(信憑性にはやや疑問符が付く模様)。ただ、作者のベリャーエフ氏によると、本書はブルコネンコ氏の実験より前に執筆されたようです。ベリャーエフ氏は数年間、全身不随の状態で寝たきりだった時期があり、この体験が本書に活かされているとか。「かぶと虫」のくだりは、ベリャーエフ氏ご自身の体験なのかもしれませんね。

 物語前半は、あらすじにある通りローラン視点を主とし、マッドサイエンティストであるケルン教授の非道な実験が描かれます。
 後半に入ると、ドウエル教授の一人息子アルトゥール・ドウエルに視点の主軸を移し、脱走したブリーケを通じて父の悲劇に迫ることになります。また、アルトゥールの友人アルマン・ラレーは、ブリーケに繋がれた死体の元の持ち主である女性歌手アンジェリカ・ガイの友人(恋人?)であり、ブリーケと愛し合うようになるとき、自分が好きなのはブリーケなのかアンジェリカなのかという点に悩まされます。
 ストーリー自体は比較的シンプルですが、本書は生命倫理的な問題、首だけを蘇生するのは許されることなのか、という選択肢を読者に提示します。実際、ただ首から上を生かすだけならば、現代医療技術でもそれなりの期間に渡って可能でしょう(別の体を繋ぎ合わせるのは当面無理そうですが)。しかし、自分がその状態になったことを想像すると、私個人はぞっとしません(^^;)
 「首だけ」あるいは「脳だけ」で生きる人間を描いた作品は『ドウエル教授の首』以前にもあるようですけど、いずれ実現されるかもしれない医療技術として描いた本書は偉大なマイルストーン作品と言えます。また、ガジェット一辺倒ではなくエンターテイメント要素も含むことで、物語としての面白さも備えている点は見逃せません。
 ただ、当時のソビエト連邦において、一般大衆からの人気は高かったにも拘らず、文壇からはかなり酷評されたようです。空想的なこと、社会主義的な階級闘争の要素を含まないことが批判対象だった模様。つまり「SFであることが駄目」だったのでしょうか(^^;)
 一方で、日本では完訳版及びジュブナイル版が一九六〇年代から幾度も日本語に翻訳され、小学校の図書室で多数の子供にトラウマを植え付けています(笑) もしかすると、『ドウエル教授の首』が最も高く評価されているのは、ほかならぬ日本だったりするのかもしれません。

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