オッド・ジョン

[題名]:オッド・ジョン
[作者]:オラフ・ステープルドン


 哲学者にして作家オラフ・ステープルドン氏による、超人類ホモ・シューピリアの少年の生を描いた〈ミュータントもの〉の小説です。
 作品が発表されたのは一九三五年で、まだジャンル自体がそれほど成熟してはいない時代と思われます。しかしながらこの時期に、パルプ小説やアメコミのようなスーパーヒーローではなく、極めてリアリティのある「知能の発達した超人」を氏が描き出したことは特筆に値します。後の作品に与えた影響も大きいようです。
 お話の構造としては、主人公となるジョンの目線ではなく、その年配の友人である普通の人類「フィドーおじさん("old Fido":ジョンに付けられたあだ名で本名は不明、以下フィドー)」による一人称形式で綴られていきます。ジョンはホモ・サピエンスを超越する頭脳の持ち主であり、我々普通人にその思考を推し量ることは困難という設定ですから、この距離の置き方はリアリティの向上へ大いに寄与していると言えます。
 作品はフィドーが執筆したジョンの伝記という形を取り、冒頭からジョンが若くして死亡することがネタバレされています。読者はジョンの死がどのようにもたらされるのかをヤキモキしつつ読み進めるという、倒叙的な楽しみがあります(^^;)

 二十世紀初頭(一九一〇年?)、イギリスに住む開業医トーマス・ウェインライトと妻パックス("Pax":あだ名、ローマ神話の女神から)の間に、一人の子供が生まれました。
 その男の赤ん坊ジョンは、妊娠期間が十一ヶ月もあったにも拘らず、医者たちがパックスの胎内から強制的に取り出したときにも妊娠七ヶ月の胎児のような姿でした。トーマスの年下の友人だったジャーナリストのフィドーは、この未熟児が人間に成長するとはとても思えず、実際一年が経過するまで保育器の中に留まらなければなりませんでした。
 生後十八ヶ月になったとき、普通の赤ん坊くらいにまで成長したジョンが目を開きます。実年齢と見た目が異なる点を除けば、ジョンは赤ん坊にしては聡明なそぶりを見せ始め、母パックスは彼を〈おかしなジョン("Odd John")〉と呼ぶようになったのです。
 発育不良ながらも優れた知性を見せ始めるジョン。しかし、彼がホモ・サピエンスとはかけ離れた超人類と言うべき知能を持つことを知るのは、朧げにそれを感じ取っていたパックスと、ジョンの友人として認められたフィドーのみでした。そしてフィドーは、自分とジョンの関係が、犬と飼い主の間柄でしかないと知りつつ、ジョンに惹きつけられずにはいられなかったのです。
 窃盗や殺人など、人間の基準から見れば不道徳・犯罪的な言動をしばしば行うことがあったものの、ジョンにとって全てのホモ・サピエンスは半人間であり、そのルールに縛られる必要を感じていませんでした。
 しかしあるとき、近い将来における人類の滅亡が不可避であり、自分もまたそこから逃れられないことを認識したジョンは、厭世的になりしばしの隠遁生活に入ります。そして、孤独で原始的な生活を六ヶ月過ごした後、家族の元へ帰宅したのです。
 この経験で超人における幼年期を脱したジョンは、これまで存在を知りながらも手掛けていなかったこと、自らの同種族を探すことにしたのですが……。

 本書の注目ガジェットは、ホモ・シューピリア("homo superior")です。他にも、超人類("superhuman")や超異常人("supernormals")などとも呼ばれます。
 この超人達を特徴付ける最大のものは、その圧倒的な知能の高さです。ホモ・サピエンスの言語や数学といったものは彼らにとって児戯に等しいもので、独自に開発した精神物理学は現代人の技術レベルをはるかに上回ります。
 テレパシー能力を有し、遠く離れた超人類同士のみならず、中には時間を超えた相手とも対話することができる者もいます(作中では、三十五年前に死亡したアドランという徳の高い超人にジョンが教えを受ける場面があります)。また、ジョンの場合は隠遁生活の間に(人間の目からすると)超常能力を身に着けたようですけど、これに関してはジョンが語りたがらないため詳細不明です(^^;)
 肉体的にはそれほど人類と変わらないものの、ホモ・シューピリアは全般的に発育不良気味で、年齢よりも若く見えます(極めて長命な者もいることから、不老の可能性もあり)。頭のサイズは人類一般と比較するとやや大きめ程度ですが、瞳は印象的なほど大きいことが特徴です。ただし、突然変異的な存在のせいか、身体に障害を持つ者が少なくありません。
 細かいことですが、この超人類は普通の人類と子孫を残すことができるようです。すなわち、生殖隔離が生じていないため、厳密にはホモ・サピエンスと別種ではなく、亜種と見做すべきかもしれません。この場合、ホモ・シューピリアではなくホモ・サピエンス・シューピリアと呼ぶ方が妥当でしょうか(^^;)

 前述のように、語り手であるフィドーの視点から間接的に描かれることで、「人類を凌駕する超人類」を説得力のある形で表現しているのが巧妙ですね。何しろ、ステープルドン氏も私達読者も超人類ではありませんので、その行動原理を真の意味で想像することは困難ですから(笑)
 ただ、個人的には政治と哲学に関して少々踏み込み過ぎた印象があり、そのせいで超人類の神秘性がややスポイルされているように感じます(例えば、「また世界大戦が起きれば文明が滅亡する」といったジョンの台詞がありますけど、本書発表は第二次世界大戦直前です)。主題として、現代人類社会の風刺という面があるでしょうから、この辺りはやむを得ないのかもしれませんが。
 かなり古い作品でありながら、その異様な超人類の描写は後の同ジャンル作品でもめったに見ないほど緻密に設定されており、哲学者ステープルドン氏の面目躍如といったところでしょうか。〈ミュータントもの〉における偉大なマイルストーンです。

この記事へのコメント

  • X^2

    ステープルドンの4作の長編SF作品のうち、これのみが日本でジュブナイル化されているので、結果的に一番読まれているかもしれません。話者が(種の異なる)主人公の知り合いというのは、「シリウス」と同じ構造ですね。
    ハックスリーの「すばらしい新世界」と同様にこの作品でも、特に生物学に関して著者が中々の知識を持っている事が垣間見られ、この時代の英国SFのレベルの高さに関心させられます。
    2019年05月26日 20:37
  • Manuke

    > ステープルドンの4作の長編SF作品のうち、これのみが日本でジュブナイル化されているので、結果的に一番読まれているかもしれません。

    ふむふむ。
    ジュブナイル版は読んでいない(と思う(^^;))のですが、どんな風に抄訳されているのかちょっと興味がわきますね。

    > 話者が(種の異なる)主人公の知り合いというのは、「シリウス」と同じ構造ですね。

    主題から外れた部分ですけど、その後フィドーがどう暮らしたのか気にかかります。
    ジョンという「主人」を亡くした彼は、喪失感にさいなまれる人生を送ったんでしょか。
    2019年05月30日 20:40