冷たい方程式

[題名]:冷たい方程式
[作者]:トム・ゴドウィン


 トム・ゴドウィン氏はほぼ、本作の作者としてだけ知られる方です。その生涯において他にも長編を三つと短編をいくつか執筆されたそうですが、それらが脚光を浴びたことは残念ながらない模様です。
 しかし、氏の名前が忘れられることは決してないでしょう。『冷たい方程式』は不朽の名作として、SF史上最も有名な短編小説の一つに数えられています。それだけに留まらず、本作は〈方程式もの〉と呼ばれるサブジャンルを生み出すきっかけにもなっているのです。

 超空間航法が発明され、人類が銀河系へと進出を始めた時代――。
 孤立した第一次植民地や探検隊には、コンタクトの問題が生じていました。人類の英知の結晶である超空間クルーザーは、建造に莫大な費用と時間を要し、辺境の隅々まで行き渡るほどの数が存在しなかったためです。このことから、クルーザーはあらかじめ組まれたスケジュールに従い、順次植民地を訪れるよう定められていました。
 しかし、何事にも緊急事態はつきものです。スケジュールにない場所で突発的に物資が必要となったときのため、超空間クルーザーはEDS(緊急発進艇)と呼ばれる小型宇宙船を搭載していました。EDSは物資を運ぶためだけに特化されている船で、一人のパイロットと貨物のみを乗せ、目的の惑星で減速するのに必要な燃料しか積載されていません。
 惑星ウォードンにおける探検隊が緑色カラ蛟の媒介する熱病に感染してしまったとき、近くにいた超空間クルーザー〈スターダスト〉は救助要請に応えて血精を準備しました。そして〈スターダスト〉は正常空間へ出現し、EDSを射出後、再び超空間へと戻っていきました。
 EDSのパイロットであるバートンは、しかし発進後一時間が経過した時点で異状に気付きます。温度センサーが、EDS内に自分以外の人間――すなわち密航者の存在を示したのです。
 熱線銃をいつでも抜けるように身構え、補給物資倉庫のドアに向かって出てくるよう命じたバートン。けれども姿を現したのは、彼の予想したような利己的な目的や使命感に取り憑かれた男ではなく、二十歳前の娘でした。兄に会いたいという無邪気な理由で密航したその少女マリリンは、EDSに密航することの本当の意味を理解していませんでした。
 緊急の目的で使われ、必要最小限の燃料しか搭載しないEDSには、冷徹な二つの方程式が存在します。その一つは、
『燃料の量hは、質量mのEDSを安全に目的地に運ぶ推力を与える』
 そしてもう一つは、
『燃料の量hは、質量mプラスxのEDSを安全に目的地に運ぶ推力を与えることができない』
 EDSの密航者は、発見と同時に艇外へ遺棄することが定められていたのです。

 本書の注目ガジェットは、EDS("Emergency Dispatch Ship":緊急発進艇)です。
 EDSは超空間クルーザーに搭載される組み立て可能な小型宇宙船で、液体燃料によって推進されます。超空間クルーザー自体は核変換機によって推進されるため、かさばる液体燃料は元々限られた量しか積載されず、EDS発進に当たってあらかじめ計算された燃料だけが配分されます。
 少しでも狂いがあればEDSは目的地へ到達することができず、結果としてパイロット、積み荷、そして積み荷を必要としている者の命が失われることになります。このため、EDSの密航者が発見された場合は、問答無用でエアロックから放擲することと決められています。
 この設定に対して、「エンジニアリングの観点から見るとエラーのためのマージンが不足している」との指摘がされることがあります(EDS射出前に密航者を発見すべき等)。とは言うものの、作中の銀河世界はフロンティア段階なわけですから、コストのかかるエラー対策より効率が優先されるというシビアな状況なのでしょう。ルールを守れない者を保護する余裕はない訳です。

 本作は単体としても非常に優れた作品ですが、オマージュ的な派生作品を多数生み出したことでも評価されます。
 いわゆる〈方程式もの〉と呼ばれる一連の作品は、『冷たい方程式』と同じ、あるいは類似したシチュエーションにおいて、いかに解決方法を見いだすかという部分に主眼が置かれます。つまり、推理小説における密室殺人のように、多くのSF作家さんが同じ題材に取り組んだ状況ですね。鋭い洞察を含んだものから強引な解決法まで、そのバリエーションは豊富です。
 ただ、この解決方法という部分に関しては、原作の主眼ではない点に留意する必要があるでしょう。本作のメインテーマは題名『冷たい方程式("The Cold Equations")』の通り、人間の感情とは一切無関係に存在する物理法則の冷厳さであり、宇宙が人の生死に無関心であるという事実を剥き出しにすることです。すなわち、〈方程式もの〉に含まれる作品群は、ある意味そのほとんどが『冷たい方程式』に対するアンチテーゼでもあるわけです。
 一つの作品がサブジャンルとして成り立ってしまうほど多くの派生作品を生み出した理由は、シチュエーションの妙はもちろんのこと、やはり本作が強く人の心を揺さぶるからという点も大きいのではないでしょうか。読後のやるせない気持ちから、この状況を覆したいと感じた方が数多くいらしたということですね。
 絶対にして不可避の掟、物理法則を核とした悲劇――良質のセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる、名作中の名作です。

この記事へのコメント

  • nyam

     SFは、他の人のつくったアイディアを次々と発展させていくことが多い分野です。例えば、タイムマシン(ウェルズ)→タイムパトロール(アンダーソン)→永遠の終わり(アシモフ)とか。
     そういう意味ではこれも「ご先祖さま」であるわけでしょう。ただ、わたしは「方程式」ものをよんだことがないですねえ。「黄金の方程式」とか「変態の方程式」ぐらいか。
    2008年05月24日 08:09
  • Manuke

    有名どころでは、A・C・クラーク氏の『破断の限界』がこれに分類されるようです。あちらは燃料ではなく酸素ですが。
    栗本薫氏の短編にもありましたね。
    あと、マンガでも時折『冷たい方程式』を題材にしたものを見かけます。日本人の琴線に触れるものがあるのかも……。
    2008年05月25日 00:47
  • nyam

    そういえば、ジョン・ウィンダム「時間の種」に収録されてた「強いものだけが生き残る」も方程式ものでしたね。後味はめちゃくちゃ悪かったですけれども。
    2008年05月25日 20:37
  • Manuke

    元ネタが元ネタだけに、かなりショッキングなものも多いかもしれません。
    『冷たい方程式』もかなりのものですしね。初めて読んだ時は、しばらく鬱になりました(^^;)
    2008年05月26日 00:16
  • Kimball

    小生がこの作品に出会ったのは、
    NHKラジオのラジオドラマでした。

    その後、原作翻訳を探し出して読んだのですが、
    正直がっかりしました。

    それだけ、ラジオドラマの脚本が見事だった、
    と思います!

    件(くだん)の小型宇宙船の操縦士の
    精神カウンセリング場面からはじまり、
    精神に異常をきたした操縦士の過去が
    明らかになっていく...という

    いまから30年以上前でしたでしょうか?

    あれから、いつも、この作品を越える
    SFラジオドラマが現れてくれることを
    願っている凡人おやじです。

    ただ月日とともに自分の「素直な」\(^o^)/
    感性が枯れてきたのでしょうか?(T_T)、
    去年のNHK FMラジオの「太陽の簒奪者」
    by 野尻抱介さんも
    小生にはいまいちでした。(T_T)
    2008年05月31日 09:23
  • Manuke

    ふむふむ、ラジオドラマがあったんですか。

    > 件(くだん)の小型宇宙船の操縦士の
    > 精神カウンセリング場面からはじまり、
    > 精神に異常をきたした操縦士の過去が
    > 明らかになっていく...という

    なんとなくフレドリック・ポール氏の『ゲイトウェイ』を連想しました(^^;)
    それは脚本の妙ですねー。一度聞いてみたいです。

    > 去年のNHK FMラジオの「太陽の簒奪者」
    > by 野尻抱介さんも
    > 小生にはいまいちでした。(T_T)

    『太陽の簒奪者』、原作読んだはずなのですが、イマイチ記憶に残ってません(^^;)
    氏の作品では〈クレギオン・シリーズ〉が好きですね。ハードSF寄りなスペースオペラの賑やかさが楽しいです。
    2008年06月01日 00:19
  • (´・ω・`)

    とり・みきさんの方程式が一番好きだ。馬鹿馬鹿しくて明るくて、とてもまぬけで生暖かなやさしい方程式。
    設定は『大勢乗ってる』宇宙船、という大幅な変更がありますが。Wikipediaの方程式ものの項目でも話の筋だけなら見れますのでぜひ。
    男塾江田島塾長の解も好きです。なんか漫画ばっかだけど。
    2009年01月09日 15:06
  • Manuke

    とり・みき氏のお話は読んでませんが、評価が高いようですねー。
    塾長の方は連載中に読みましたw
    あれは清々しいくらいの大技で、思わず笑ってしまいました。
    2009年01月10日 00:35
  • むしぱん

    高校の頃、少女のかわいそさにうるうるしながら読みました。ですが最近、2011年に出たハヤカワの再編集版を読み返したところ、「やっぱり少しぐらい余裕の燃料は持たないとちょっと厳しいような??」とも思ってしまいました。

    発進時には発見不可能だった宇宙塵やデブリなどと衝突することが判明した場合の軌道微調整用の燃料とか、大気圏突入後の突発的気象変動発生時に、空路変更か強行着陸のどちらをするにしてもやっぱり追加燃料が必要そうだし・・・などなどが理由です。
    (それらバタフライ効果なども全て事前に予測するスーパー航法コンピューターの存在が前提ならば大丈夫かも? でもそしたら、少女の密航も予測しちゃいそうですね。すみません、ケチをつけたいのではなく、この名作短篇を好きな故の前向きな突っ込みです)

    「クレギオン」! 私も大好きです。野田昌宏氏が「あいつら今頃なにしてるかなあ」と思えるのがよいスペオペみたいなことを何かで書かれてましたが、私にとってはクレギオンがまさにそれです。野尻氏、続編を書いて頂けないですかね~。(ロケットガールも同様です)
    2015年07月18日 20:51
  • Manuke

    作中ではおそらく、命の値段が安いのでしょうね。
    EDSのパイロットはおろか、植民地の住民すらマージンを許容するほどの価値があるとは見なされないのかも……。

    〈クレギオン〉、良いですよねー。
    ベースの世界設定はメールゲームだったようなので、権利的に色々困難がありそうですけど、ぜひ続きを読みたいお話です。
    2015年07月22日 01:34

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