タイム・マシン

[題名]:タイム・マシン
[作者]:H・G・ウェルズ


 近代SFの父と呼ばれる方はお二人存在します。
 その一人ジュール・ヴェルヌ氏がSFというジャンルを開拓されたのは、十九世紀中盤でした。産業革命という変革を経て、科学という力が世界を大きく動かそうとし始めた頃に、エンターテイメントの中へもそれが入り込み始めたのは時代の趨勢だったのでしょう。しかし、ヴェルヌ氏がその諸作において科学そのものの面白さを見事に表現してみせたことで、サイエンス・フィクション――空想科学小説は一つのジャンルとして成立することになりました。
 そしてもう一人の父が、やはり十九世紀末に登場します。そのH・G・ウェルズ氏が描き出した方向性により、SFはそれ以前の小説とは異なる独自の道を歩み始めます。
 それが中編小説『タイム・マシン』です。この作品により、SFは第二の誕生を迎えたのだと言っても決して過言ではありません。

 物語は、ある科学者(作中ではタイム・トラヴェラー:"The Time Traveller"とだけ呼ばれます)の友人視点から綴られます。
 友人達との夕食会の後、タイム・トラヴェラーは皆にある話題を持ちかけました。彼曰く――実在の物体は全て、三次元ではなく四次元の広がりを持っているのだと。そして、第四の次元である時間の方向にもまた、自由に移動する手段があるのだと。
 客達は次元の在り方には同意しつつも、時間の中を自由に移動することなど不可能だと主張します。タイム・トラヴェラーはそんな彼等に時間を移動可能にする機械、タイム・マシンの模型を提示し、その動作を実演してみせます。そして、本物を現在製作中で、間もなく完成するだろうと言うのです。
 しかし、客達の中に彼の言ったことを本気で信じた者はいませんでした。タイム・トラヴェラーは非常に頭が良く、少々癖のある人物でしたので、皆は彼がトリックを使ったのではないかと疑ったのです。
 一週間後、またタイム・トラヴェラーの家に人々が集います。しかし、肝心の家主の姿はありません。帰りが遅れるとの書き残しにより、友人達が先に夕食を始めていたところへ、傷だらけで衣服がぼろぼろの状態のタイム・トラヴェラーが帰宅しました。
 何をしていたのかとせっつく友人達に、タイム・トラヴェラーは身だしなみを整えて食事を美味そうに摂った後、おもむろに話し始めます。それは、タイム・マシンを使って行った、八十万年未来への驚くべき旅行の物語でした。

 本作の注目ガジェットは、もちろんタイム・マシンです。史上初のSFガジェットと言えるかもしれません。
 時間の中を未来や過去へと移動することができるこの機械の名称は、非常に知名度の高いキーワードだと思われます。SFファンに限らず、多くの人々がその名と意味を知っていることでしょう――事実上、SF以外の文脈ではまず使われない言葉であるにも拘らず。
 作中のタイム・マシンは真鍮製の枠組でできており、一部にニッケルや象牙、そして削り出した結晶が組み込まれています。内側にサドルが備え付けられ、その前には移動した時間を表す文字盤が四つ置かれています(それぞれ一日/千日/百万日/十億日単位)。
 タイム・マシンが過去もしくは未来へ移動中には、存在が希薄になるため外からは見えなくなります。逆にタイム・マシン中からは外の時間変化が見え、昼夜の変化が航行速度(?)を速めることにより渾然一体となっていく様や、建物が急速に成長しては崩れていく様子が観察されます。
 このタイム・マシンから見た光景は、動画の低速度撮影や逆再生を知る現在の私達にとっては容易に想像のつく部分です。しかしながら、リュミエール兄弟が映画を世界初公開したのは一八九五年、エジソン氏のキネトスコープも一八九一年です。本作の雑誌連載開始が一九八四年ですから、おそらくウェルズ氏は全てを想像により生み出されたのでしょう。驚くべきイマジネーションですね。
 現実世界では、今のところタイム・マシンが作成できる見通しは立っていません。相対性理論の観点からは、時間旅行がもしかしたら可能かもしれないと言われますけれども、実際に作るとなるとそう簡単にはいかないようです。タイム・マシンという言葉は、当面はSF上の用語というわけですね。

 作中では八十万年後の世界が登場し、人類がエロイ族("Eloi")とモーロック族("Morlock")に分かれて存在する様が描かれます。エロイ族は美しい容姿の小人で、楽園的な未来の地上世界にて暮らしていますが、知能はかなり退行しているようです。一方、モーロック族は手足が長くギョロ目の(タイム・トラヴェラーにとって)おぞましい種族で、地下の暗闇で生活しています。タイム・トラヴェラーは到着当初、八十万年後は病気も飢えもない楽園なのだと思い込みますが、程なくその誤りに気付くことになります。
 この人類の末裔は、貴族階級と労働階級の差異が拡大した結果、別の種族に分かれるまでになったものと推測されています。ウェルズ氏は当時社会主義に傾倒しており、資本主義の行く末としてのディストピアを描写されたようです。
 また、タイム・トラヴェラーはその後更に未来へと進み、地球の終焉を目撃することになります。壮大かつ寂寥感溢れる場面です。

 本作の肝はタイム・マシンそのものではなく、それを通して綴られる文明批判や終末の描写にあります。ここがジュール・ヴェルヌ氏との最大の相違点ですね。
 ヴェルヌ氏は科学を真正面から取り上げ、それ自体を作品の見所としました。重力の束縛を逃れて月へ到達しようとする試みしかり、深海を航行する超高性能潜水艦しかり、です。そこでは科学考証に注意が払われ、それがリアリティへと繋がります。現在の分類で言うとハードSFに該当するものです。
 一方、ウェルズ氏の描いたものは必ずしも科学的とは言えません。タイム・マシンは完全に架空の存在ですし、火星人もおそらくは存在しないでしょう。しかし、それを通じて得異な状況を作り出し、己の立つ場所を外から眺めることを主眼としているわけです。ガジェットが超自然のものではなく科学技術的であることは、状況の客観性を強める方向に働いているのではないでしょうか。
 ウェルズ/ヴェルヌ両氏はお互い、相手の手法がお気に召さなかったようです。しかし、現在から振り返ってみると、どちらもSFというジャンルにおいて根源的な手法であることに改めて気付かされます。これが、SFの父がお二人存在することの理由なわけですね。

 もちろんエンターテイメントとしても本作は一級です。描き出される異質な未来や、そこに生きる人類の末裔達の有様、作品全体に流れる物悲しさ等、中編ながらも非常に読み応えがあります。
 SFというジャンルそのものの確立に寄与した、時間SFの金字塔です。

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