泰平ヨンの未来学会議

[題名]:泰平ヨンの未来学会議
[作者]:スタニスワフ・レム


 かなりブラックかつ鋭い視点が特徴的な、巨匠スタニスワフ・レム氏のユーモアSF〈泰平ヨン・シリーズ〉の一エピソードです。
 作品形式としては、『泰平ヨンの現場検証』と同じく長編小説の形態を取っていますが、あるシチュエーションにより物語が大きく二つに分かれています。本書のメインテーマとなるのは、化学物質による精神のコントロールですね。

 宇宙飛行士の泰平ヨンは盟友タラントガ教授に請われ、コスタリカで開催される第八回世界未来学会議に参加することになりました。ヨンは未来学のことなど何も知らなかったものの、タラントガ教授に「だれだってポンプの原理を知らないが、『おい、ポンプだ!』と怒鳴られたら、行かない奴はいない」という屁理屈で言いくるめられてしまいます(笑)
 会場となる百階オーバーの巨大なヒルトン・ホテルに入ったヨンですが、現地はクーデターの噂が立つキナ臭い情勢でした。また、同じヒルトン・ホテルでは、未来学会議以外にも解放文学出版社会議やマッチラベル収集家協会大会が開催されており、かなり収拾がつかない状況です。
 ヨンがホテルの部屋で水道から水を飲んだとき、ホテルは停電してしまいます。不快感を覚えて当然のはずが、ヨンは逆に極めて気分爽快になり、隣人愛を強く感じ始めました。自分の性格からして、この感情が自分本来のものではないと確信(^^;)したヨンは、水道水に博愛心を強める薬品が混入していたのだと結論付けます。そして、自分の体を痛めつけたり、飲むと憂鬱で攻撃的になる睡眠薬で相殺し、何とかやり過ごしたのでした。
 やがて未来学会議が始まり、人類の未来を憂う学者達が奇妙で奇天烈な研究内容を発表していきます。その最中、爆発音が鳴り響き、遂に戦争が始まってしまいます。
 ところが、コスタリカ政府がクーデターを防ごうと実行したことのため、事態はあらぬ方向へ逸れていきます。政府は水道水に穏健臭化カリ・至福剤・中庸剤・超歓喜剤といった隣人愛を喚起する薬剤を混入していたのですが(ヨンが影響を受けたのはこのせい)、水道水を誰もが飲むわけではなかったため、期待した効果は得られませんでした。更に、飛行機から投下された隣人愛誘導爆弾(^^;)がガスマスクで防げず、過激派を抑え込もうとしていた警察官たちまでが隣人愛に目覚め始め、てんやわんやの事態に発展します。
 たまたまスイスの未来学者トロッテルライナー教授が幻覚薬物学の専門家だったこともあり、ヨン達は酸素ボンベを吸いつつ下水道へ降り、一夜を過ごすことにしました。けれども、ボンベの数は不足していたため、ヨンは幻覚に悩まされます。
 救いの手が来たときも、幾度も幻覚に惑わされたヨンはそれが現実だとは信じられない状態になっていました。救いに来た兵士に自分を撃てと言い放ち、その通りに実行されて病院に担ぎ込まれたヨンですが、全てを幻覚だと思い込む症状は治療不可能とされ、体を液体窒素で冷凍されてしまいます。
 そして、ヨンが目覚めたのは二〇三九年の七月(元の時代は二十世紀のようですが、〈泰平ヨン・シリーズ〉は整合性にあまり留意していない模様(^^;))。そこは、薬品により人間の精神を自在にコントロールすることが当たり前になった、精神化学の時代でした。
 しかし、一見すると輝かしい未来に見えるその社会は、恐ろしい闇を抱えていたのです。

 本書の注目ガジェットは、精神化学(サイコケミストリィ)です。
 泰平さんが冷凍から目覚めた時代では、人間の精神状態を薬物によって任意にコントロール可能とされています。家族同士でいがみ合いが起きても、協調錠を飲めばたちまち仲直り、といった具合です(^^;) 書物は読むものではなく食べるもの(薬剤を摂取すると内容が覚えられる)で、錠剤ドリーミンを飲めばいつでも夢の中で好きな幻映を楽しめます。
 必ずしも良いことばかりではなく、許可なく他者を薬で操ってしまう犯罪もあり、重罪とされています。また、債権者が支払いを渋ったりした場合、信託銀行から送られてくる文書に揮発性の薬が浸みこませてあり、良心の呵責と労働意欲を強制的に目覚めさせられてしまうといったこともあります。(こちらは合法(笑))
 ところが、中盤でマスコン(点線状幻覚剤)なる薬剤の存在が明らかになると、この未来世界の真の姿が判明します。マスコンは、摂取することで現実を完全に幻覚で覆い隠してしまう強力な薬で、言ってみればAR(拡張現実)を電子機器ではなく薬品で実現してしまったもの、でしょうか。問題は種々あれど、皆それなりに文明を享受していると思われたのが実は……というわけです。
 作中では、何故か通行人が苦しそうに喘いでいることにヨンが幾度か気付きますけど、その真相に思わず吹き出してしまうこと請け合いです。

 本筋とはあまり関係ないのですが、未来学会議で日本人のハヤカワ達が提唱する未来のビルディングがなかなか興味深いです。
 このビルは六百階建てで、中に産科病院・託児所・学校・商店・劇場、果ては火葬場まで完備した完全自己完結型の建築物です。「閉鎖循環再生(リサイクル)方式」とされており、廃棄物・排泄物を食料その他に作り替えることで賄い、酸素以外の備蓄は存在しません。(農業に関する言及はないので、食料は化学的に合成?)
 これはいわゆる完全環境都市アルコロジーに相当する発想ですね。建築家のパオロ・ソレリ氏がアルコロジーを提唱したのが一九七〇年頃、本書のポーランド語版が一九七一年発表のようなので、レム氏がご存じだったかどうかは不明です。ただ、内容としては、せせこましい集合住宅で生活する日本人を茶化した風刺と思われますので、レム氏オリジナルかもしれません。
 なお、元の計画ではビル自体が強力な回転翼で飛行し団体旅行可能(ここも、大勢で団体旅行する日本人を揶揄しているのでしょう(^^;))だったのですが、予算と現実的問題(人がたくさん暮らしているので、ビルから全員が出る前に新しい子供が生まれてしまう(笑))から没になったようです。この「移動可能なアルコロジー」は、シミュレーションゲームの『シムシティ2000』を連想させられますね。:-)

 前半は未来学会議を通じた人口爆発への警鐘、中盤以降は精神化学を題材としたユーモラスでグロテスクな未来世界と別れますが、実は前半でも精神に影響を及ぼす薬剤を扱っていますし、未来世界も人口問題とリンクしていることが分かります。
 オチは思いっきりバレバレなのですけど、本シリーズではさほど重要ではないので問題ありません(^^;)
 悪影響なしに精神をコントロールできる薬品が存在したら、私たちはそれに抗うことができるでしょうか。鋭い洞察を含んだ、ユーモアSFの傑作です。

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