火星の人

[題名]:火星の人
[作者]:アンディ・ウィアー


 本書『火星の人』(原題:"The Martian")は、火星に一人きり取り残された宇宙飛行士が生き延びようとするハードSFです。
 えてして難しくなりがちなハードSFを敬遠される方もいらっしゃるかと思いますが、本作では科学考証こそしっかりなされているものの、難解な印象はありません。ロビンソン・クルーソーですら裸足で逃げ出しそうな(^^;)危機的状況にありつつも、むしろ文章からはほとんど悲壮感が感じられず、力強いテンポで一気に最後まで読ませてくれます。これは、何があってもへこたれない陽気な主人公マーク・ワトニー青年のキャラクター性によるところが大きいですね。
 事故により火星へ置き去りとなった宇宙飛行士ワトニー。そもそも救いの手が現れるのかも分からない状況で、彼は懸命に命をつなぐ手段を探します。

 NASAの有人火星探査プロジェクト・アレス3は、火星到着後六日目にミッション中止命令が出されることになりました。強烈な砂嵐のせいで、ミッションを打ち切って宇宙船〈ヘルメス〉に退避せざるを得なくなったのです。
 しかし、六人の宇宙飛行士がMAV(火星上昇機)へと移動中、突風に飛ばされたアンテナがクルーの一人マーク・ワトニーを襲います。砂嵐で姿が見えなくなり、宇宙服からの最後の信号も気密が破れたことを示していたため、一行はワトニーが死亡したものと判断し、後ろ髪を引かれつつも火星を後にします。
 ところが、ワトニーは生きていました。アンテナが刺さった際に流れた血のせいでスペーススーツの穴が塞がれ、どうにか気密が保たれたのです。息を吹き返したワトニーは、クルーが既に火星から去ってしまったことを知ります。
 けれども、ワトニーは仲間達を恨まず、投げやりにもなりませんでした。彼はハブ(空気で膨らませた簡易基地)へ戻ると、生き延びる術を探し始めます。四年後に火星を訪れるはずのアレス4に救助されることを信じて。
 アンテナが壊れているため地球との通信もできず、自分が生きていることすら伝えられませんが、ワトニーは植物学者兼メカニカル・エンジニアという己の能力を活かすことにします。
 当座の問題は、水と食料でした。ハブには六人×五六日分の食糧が残されていたものの、アレス4を待つには足りません。ワトニーはジェット燃料から水を生成し、排泄物で火星の土壌を改良してジャガイモの栽培に取り組みます。
 一方、ワトニーが死亡したと判断していた地球側ですが、火星の衛星軌道上からのハブ周辺写真により、彼が未だ生きていることを知り騒然となります。しかしながら、〈ヘルメス〉は地球に帰還中、ワトニーに連絡を取ることもできない、と指を咥えて見守るほか手だてがありません。
 そうした中、ワトニーがローバーに乗り込んでハブを後にし、いずこかへ遠征するらしいことが判明します。彼が無人の荒野でローバーを走らせた、その目的地とは――。

 本書の注目ガジェットは、アレス計画です。
 アレス計画は作中において、火星表面を約一ヶ月有人探査することを目指すNASAのプロジェクトで、アレス3はその三回目に当たります。
 計画の肝は、実際に宇宙飛行士が火星に到達する前に、あらかじめ離陸船や物資を無人機で火星表面に送り届けておく点です。この辺りは、一九九〇年代に実際に提唱されたマーズ・ダイレクト計画などをベースにしているものと思われます。
 物語に登場する宇宙船は、主に〈ヘルメス〉/MDV(火星降下機)/MAV(火星上昇機)の三つです。このうち、〈ヘルメス〉は地球-火星往復用宇宙船で、複数のアレス計画にまたがって利用されるシャトル船ですね。MDVは〈ヘルメス〉から火星表面へ降りるための着陸船で、使用後は乗り捨てられます。MAVは探査に先だって火星へ送られる離陸船で、RTG(放射性同位体熱電気転換器、プルトニウム利用)をエネルギー源とし火星大気からロケット燃料ヒドラジンを生成しつつ、宇宙飛行士の到着を待ちます。
 物語開始の時点では、アレス3のMAVは離陸してしまい存在せず、〈ヘルメス〉も火星を離れた後です。MDVはハブの近くにそのまま残されていますが、嵐のため横転してしまっています。一方、かなり離れた場所ではあるものの、アレス4MAVは既に火星上に着陸しており、燃料を生成中です。
 居住環境であるハブは空気で膨らませたドーム型施設で、内部には九二平方メートル(およそ五〇畳)の広さがあります。その他に、バッテリー駆動の火星地表探査車ローバーが二台用意されています。
 こうした、非常に限られたリソースを詰将棋のようにやりくりしながら生き延びる術を探すのが作中の見所です。何しろ、火星表面は人間の居住にまったく適さない場所なのですから。

 本書の視点は大別して、火星にてワトニーの記録したログエントリーと、地球での三人称視点の二つです。
 このうちメインとなるログは、ワトニー本人の生の声ではなく、あくまで事後報告的に一日を振り返った日記形式なのが興味深い点ですね(一部、音声記録形式もあり)。ワトニーの本当の姿をありのままに描いているわけではないため、読者とワトニーの認識に齟齬が生じる部分があります。ワトニーは明るいキャラクターですが、ログには記述されないところで彼が何をどう感じていたのかを想像してみるのも面白いでしょう。
 一方、地球側は通常の三人称小説形式ですが、かなりグダグダな状況です。やっぱりテストは大事ですよね。:-)
 舞台は火星有人探査が行われることになる未来で、明記はされていませんが二〇三〇年代のようです。技術的飛躍はなく、将来火星探査が行われるとしたらこうなりそうなリアリティがあります。
 興味深いのは、冒頭の事故を始めとする数々のトラブルも、いかにも実際に起きそうなこととして詳細に描かれている点です(トラブルの原因が、登場人物視点ではなく鳥瞰視点で記される箇所も)。対処方法も非常に現実的で、かつ現実の火星探査と絡んでいるのが見事です。
 一難去ってまた一難、本来なら非常に陰鬱になる展開が幾度となく繰り返されるのにも拘らず、ワトニー君は不屈の精神でそれらを乗り越えていきます。機転とユーモアに富み、自分を置いて行ってしまったクルーを恨まないばかりか彼等の判断が間違っていなかったと気遣う思いやりを持つ、非常に好感のもてる人物設定ですね。これが本書の読後感の良さに大いに寄与していると言えるでしょう。

 余談になりますが、この"The Martian"は元々WEB小説としてウィアー氏のウェブサイトで公開されていたようです。それがファンの要望により自費出版されてトップセラーになり、商業出版を経て映画化されるまでに至ります。
 ウィアー氏は執筆準備に三年をかけ、また読者からのフィードバックを受けて修正を行ったそうで、本家NASAからも科学的正確さが高く評価されています。数少ない指摘点として、「火星の大気圧は低いため、砂嵐はそれほど威力がないはず」というものが挙げられていますが、このくらいはご愛嬌ということで。:-)
 舞台設定は綿密に計算されながらエンターテイメント性も高い、良作サバイバル小説です。

この記事へのコメント

  • X^2

    小説は未読ですが、映画の方を観ました。同様の宇宙サバイバルものである「グラヴィティ」でもそうだったのですが、こういった作品中での宇宙開発における中国の存在感が年々増しているように思います。日本のネット上では、はやぶさやあかつき等の日本の宇宙技術を過度に称賛して、それと比較して中国を馬鹿にする意見が目につきますが、第三者の目から見ると中国の技術力の方が上とみなされているという事なのでしょうか。
    2016年03月27日 16:17
  • Manuke

    ウィアー氏が中国の宇宙技術をどう評価されているのかは分かりません。
    ただ、本書登場の〈タイヤン・シェン(太陽神)〉は非常に重い太陽探査機で、これを地球軌道に乗せるロケットも強力なものとされています。具体的な能力は書かれていないようですが、ロケットだけで八〇〇トンある模様。さすがに乾燥質量だとサターンVを超えてしまうので(^^;)、推進剤込みの総質量でしょうか。
    単純に総質量で比較すると、日本のH-3ではおそらく半分以下、アメリカのデルタIVヘビーか中国の長征5号がようやく比肩するレベルですね。つまり、二〇三〇年代で作中の需要を満たせるロケットを有するのは、多分アメリカか中国だけだと思われます。

    個人的には、日本の宇宙開発はもう少し有人宇宙飛行にも力を入れて欲しいところですね。「有人宇宙飛行は無駄」と切り捨てる識者が多いのは残念……。
    2016年03月29日 01:11
  • むしぱん

    ハヤカワ文庫刊行から2年、ようやく映画版をWOWOWで昨夜観ることができました。リドリー・スコット監督のオリジナルアイデアも盛り込まれていて楽しめました。

    私にとっての本書の注目ガジェットは、「SF史上(物語史上?)最強の、何があってもへこたれない陽気で前向きな主人公の性格」です。『サイボーグ009』ミュートスサイボーグ編で、アポロンとの闘い時に「加速装置以外に、おまえには何の能力がある?」と問われた時に、「あとは・・・勇気だけだ!」と009が答える名シーンがありますが、ワトニー君だったら「あとは・・・前向きな性格だけだ!」と答えてくれそう(笑)。本書はそんな「前向きな考えは十分、武器になる」ことを教えてくれたと思います。

    同じ火星サバイバルものの『火星縦断』も映画化されておかしくない出来だと思うのですが、本書のために影が薄くなってしまったかも感がちょっとさみしいです。
    2016年12月04日 22:12
  • Manuke

    映画もかなり良かったですね。
    一部展開が省略されている部分もありましたけど、尺が足りなくなってしまいますから仕方がないですし。
    例のアイアンマンのシーンはニヤリとさせられました(^^;)

    それにしても、ワトニー君のキャラクタは良いですね。本書が多くの人から支持された理由はいくつもあるでしょうが、ワトニーの性格付けはその中でもかなりのウェイトを占めるのではないかと感じます。

    『火星縦断』は未読ですが、こちらも火星でのサバイバルでしたか。近いうちに読んでみたいと思います。
    2016年12月08日 01:34
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