火星のタイム・スリップ

[題名]:火星のタイム・スリップ
[作者]:フィリップ・K・ディック


 鬼才P・K・ディック氏による、火星植民地での人々の関わり合いを描いた風変わりな時間SFです。
 本作の舞台は一九九四年で、人類は火星に植民地を作り移住を行っていますが、まだ社会は未発達で、闇商売や差別が横行しています。また、火星にはブリークマンと呼ばれる火星原住民が存在し、地球人と共通の祖先を持っている模様です。(ブッシュマン的な位置付け?)
 これに加え、本書では自閉症や精神分裂病に独自のSF的設定が与えられており、物語の展開に大きく関わってきます。この設定がディック氏お得意の、現実と幻想の境界が曖昧な悪夢へと読者を誘うことになります。

 火星で修理工を営むジャック・ボーレン。彼は地球にいたころに精神分裂病を患ったことがありましたが、今はその症状は抑えられています。
 そのジャックがある日ヘリコプターで修理依頼者の元へ向かっていたとき、火星原住民ブリークマンが砂漠で遭難しかけているという連絡が国連から入りました。彼が着陸して水と食料を分け与えていると、同じ知らせを聞いた水利労働者組合長アーニイ・コットのヘリが到着します。
 滅び行く種族ブリークマンの保護は国連から課せられた義務であり、ヘリのパイロットはジャックと協力して水を分け与えます。しかし、水利の独占により火星上で絶大な権力を有するアーニイは、ブリークマンを非人間と見下しており、水を分け与えるのも嫌々ながらでした。そのことで、ジャックとアーニイは少し口論になります。
 その後、ジャックはアーニイに呼ばれて水利労働者組合会館へ出向くことになりました。アーニイは自分に楯突いた修理人が気に入らなかったものの、その反骨精神から優秀な技術者であることを見抜き、彼の能力を自分の計画に使うために招いたのです。
 アーニイの計画――それは、予知能力を有する自閉症児とのコミュニケーションのため、最新の学説に基づく装置を作成し、未来を知る力を得ようという野望でした。そして、その対象として選ばれたのは、ボーレン家の隣人スタイナー家の隠された息子マンフレッドだったのです。

 本書の注目ガジェットは、自閉症患者の時間感覚です。
 作中では、自閉症や精神分裂病は内部的時間感覚が健常者とは異なっているのではないかとの説が立てられています。例えば、自閉症児は非常にゆっくりとした時間感覚を持っており、彼らには植物の発芽する様子が低速度撮影された映像のように動いて見えるものの、普通の人間は動きが速すぎて理解できない、といった具合です。
 アーニイはこれに対し、外の世界をスローモーションで見せる部屋をジャックに作らせ、マンフレッドと意思疎通を図ることを目論みます。アーニイの考えは、この独特な時間感覚のせいでマンフレッドには未来が見えるはずだとし、彼から未来予知を引き出そうというものです。しかし、実際にはアーニイの思惑通りに事は運びません。
 少々問題なのは、実在する病気である自閉症や精神分裂病(統合失調症)をSF設定に絡めてしまっている点ですね。両者を同系統の精神疾患として扱ったり、自閉症の原因が育児にあると登場人物が認識している辺りは、作品の初出時期(一九六三年)を考えれば致し方ない部分ではあるものの、現在では評価を得られにくいように思われます。

 物語は複数の人間によって織りなされていきますが、特にストーリーの中心となるのはアーニイ、ジャック、マンフレッドの三人です。
 アーニイ・コットは不法な選挙運動によって獲得した組合長という立場を利用し、火星で最も繁栄しているコロニイ・水利労働者組合の上に独裁者として君臨する男性です。非常にエネルギッシュですが、自己中心的かつ他人を見下しています。
 一方、ジャック・ボーレンは実直で有能な修理工で、物語冒頭では修理会社に所属していますが、途中からアーニイに請われて彼の下で働くことになります。地球にいる頃、他の人間が機械に見えてしまうという妄想に取り憑かれたことがあり、マンフレッドと接することでその症状がぶり返すことを内心恐れています。
 マンフレッド・スタイナーは自閉症の少年で、周囲の人々とは全く異なる時間を生きています。マンフレッドは老年期に、施設の中でチューブに繋がれ身動きが取れない状態で終末期医療を受けることになるのですけど、彼にとってそれは未来予知ではなく体感している現実です。今という時間はマンフレッドにはあまり意味を持たないようで、生まれたときから死の間際に味わう苦痛を体感し続けていることが彼を苦しめています。
 その他にも、イスラエル・セツルメント所属の精神科専任医師ミルトン・グローブ博士、マンフレッドの父で闇商人のノーバート・スタイナー、アーニイの元妻で女性運動家のアン・エスターヘイジイ、アーニイの情婦でジャックに同情を寄せるドリーン・アンダートン、国連とCO・OP(クープ:生活協同組合)が火星への大規模進出を計画しているというインサイダー情報を掴み火星へやってくるジャックの父レオ・ボーレン等々、多数の人物が登場します。
 それらの人々が、単なる役割を振られたキャラクタではなく各々の思惑を抱いた現実感のある存在として描かれながら、総体としては歯車がかみ合うように一つのストーリーを形成する辺りが見事で、非常に完成度の高い作品だと感じられます。現実の崩壊していく様や、人間のまがい物(教育用ロボットのティーチング・マシンが登場)といったディック作品らしい要素も盛り込まれており、なかなかの傑作と言っても過言ではないでしょう。

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