ロボットの魂

[題名]:ロボットの魂
[作者]:バリントン・J・ベイリー


 本書は奇才バリントン・J・ベイリー氏による、高度な認識力を持ったロボットの苦悩の旅を描いたお話です。
 ベイリー氏と言えば、ネタを詰め込んで宇宙規模の危機に仕立て上げたワイドスクリーン・バロックで有名(?)ですが、本書はあくまで題名の『ロボットの魂("The Soul of the Robot")』に沿った直球勝負のお話です。とは言え、ベイリー氏お得意の超理論は本書でも健在ですが(^^;)
 高性能な知的能力を与えられて誕生したロボット・ジャスペロダス。彼は人間と関わりながら、答えを探し続けます――ロボットには存在しないと結論づけられている意識が、自分の中にあるように思えるのは何故か、と。

 人類の文明が一度崩壊して八百年後、〈旧帝国〉時代の知識の多くが失われてしまい、世界がまだ混沌の中にある時代――。
 ある老ロボット師夫妻が、自分達の子供とすべく一体の高性能ロボットを作り上げました。その名はジャスペロダス。ブロンズ・ブラックのボディに巻物模様の浮き彫りが施されたハンサムなそのロボットは、非常に高い知的能力を有していました。
 けれども、ジャスペロダスは稼働直後に自分の両親に嘲笑を浴びせ、家を去ってしまいます(生まれた瞬間から不良息子(^^;))。彼は両親の元に留まってその子供として振る舞うよりも、自分で運命を切り開くことを選んだのです。
 かくして、知識だけはあるののの実体験のない世界へ繰り出すこととなったジャスペロダス。彼が最初に出会ったのは列車強盗でした。自分にマシンガンを撃ってきた強盗に対していきなり殺人を犯した後、しばし盗賊団と行動を共にするものの、翌日には袂を分かつことにします。
 ジャスペロダスがとある街、小王国ゴードナへと辿り着いたとき、彼は野良ロボットとして捉えられてしまいました。ジャスペロダスは自分は意識のあるロボットなのだと訴えますが、宮廷ロボット師のパデュアに「ロボットには自意識は生まれない。自意識を持つかのように振る舞いはしても、その裏側には魂がない」と教えられ、愕然とします。そして、自分なりにロボット工学を学び、パデュアの言葉が真実であることを認めざるを得ませんでした。
 一度は自暴自棄となったジャスペロダスですが、ある事故を契機に考えを改め、自分が人間より劣った存在でないことを行動で示すという野心に取り付かれてしまいます。彼はゴードナの支配者ゾーム王の兄オクラモラ王子に取り入り、軍人としての地位を手に入れました。
 高い知能を活用して司令官にまで上り詰めたジャスペロダス。そして、オクラモラ王子がクーデターを起こして王位を簒奪する直前、刹那の狂気に駆られたジャスペロダスは事前の計画を無視してオクラモラ王子を射殺し、王冠を自らの頭上に戴きました。
 しかし……。

 本書の注目ガジェットは、全体子(トータリトロン:"totalitron")です。(実はあんまり本筋には絡んでこないのですが(^^;))
 作中の物理学では、宇宙の半分が素粒子とは正反対の性質を持ったもので構成されているのだと推測されており、これが局所ではなく宇宙全体に遍在して存在することから、全体子の名前が与えられています。全体子には位置や運動量ベクトルという属性自体がないようで、その代わりに“空間性”や“時間制”という性質を持つだろうと考えられています。
 ……正直に言って訳が分からないのですけど(笑)、この発想は秀逸です。位置というものが、単に特定の素粒子が有する属性でしかないとすると、空間はそれら複数の素粒子により仮想的に作られる場ということになるのでしょう(文字通りの「仮想空間」?(^^;))。位置を持たない全体子のみに着目すると、空間は存在しないも同然な訳ですね。
 ジャスペロダスは、この全体子が自分の魂の源ではないかと考えて調査を行いますが、作中世界でも全体子の全容は未解明のためにうやむやになってしまいます。物語内の位置付けとしてはほんの余録程度なのですが、いきなり前触れもなくトンデモ物理が登場してその解説に数ページを割いてしまうあたりが、いかにもベイリー氏の作品らしいと言えます(^^;)

 実際のところ、本書の肝は全体子ではなく(^^;)、「ロボットの持つ意識」という問題に集中しています。
 作中では「ロボットがいかに自意識のあるような行動を取ったとしても、それは単なるシミュレーションで本物ではない」と結論が出ています。この結果、ジャスペロダスは自分自身が虚構であることを受け入れざるを得なくなり、大いに苦悩することとなります。
 ジャスペロダスの自分探しの旅の終わりに関しては本書を読んでいただくとして、面白いのが、この議論の過程で「人間に意識はあるのか」という疑問が提示されていることです。こちらも作中では「疑念の余地なく人間には意識がある」と結論づけられていますが、同時にそれを証明するものが一切ないことも示されています。もっとも、ジャスペロダスは「自分には意識がないが、人間にもないのだろう」という考えでは満足できないようですが……。
 はてさて、本当に人間には意識、クオリア、あるいは魂というものが存在しているのでしょうか。少なくとも、作中で「自分には意識がある」と主張している人間達は、実際には本の登場人物でしかないのですから。
 デカルト氏は「我思う、ゆえに我あり」とおっしゃったそうですが、私は存在するデカルト氏に会ったことはありません。発した人間の死後、活字になった「我あり」の言葉の主体は誰なのでしょう。:-)

この記事へのコメント

  • nyam

    こんにちは。
    ジャスペロダスは、両親(?)を捨てて行くのですが、ちょっと不道徳な感じがしました。
    もし、「ロボットの魂」「光のロボット」につづく続編があるなら、「ロボットの倫理」というのも書いてほしかったです(三原則しか思いつかない・・・)。
    あと、デカルトの言葉は直訳すると、「思う、ゆえに我あり」だそうです。
    だから、思考するものであればなんでもいいのでは?
    2012年02月19日 19:34
  • Manuke

    > ジャスペロダスは、両親(?)を捨てて行くのですが、ちょっと不道徳な感じがしました。

    まあ、ベイリー氏の描く主人公は性格が悪かったり小物だったりするキャラクタが少なくないですから、その辺りもベイリー調と言えるのではないでしょうか(^^;)
    次巻では多少倫理的なことを口にしていますので、本巻から少しは成長したのかもしれません。

    > あと、デカルトの言葉は直訳すると、「思う、ゆえに我あり」だそうです。
    > だから、思考するものであればなんでもいいのでは?

    あれ、そうなんですか?
    デカルト氏が内省の結果として得た出発点だと思っていたので、「我」は必然なのかと……。
    ただ、そうすると余計空虚に感じられますね-。「思うとか思わないとか一切関係なく『我あり』ということにしたかっただけ」じゃないかという気がしないでもないです(^^;)
    2012年02月20日 00:56
  • Populajp

    私はPopulaといいます。

    私Populaは、今ここ(家の部屋のパソコン前の椅子)に居る「感じ」がしています。この「感じ」ている主体を<私>と言い、この「感じ」を(つまり、<私>への何かの作用を)<意識>と言うとことにします。

    もし、私Populaは、他人の中に<私>や<意識>の存在を何らかの方法で知ったとすると、その他人はたちまちにして私Populaでないと、論理矛盾になります。言い換えれば、私Populaは私Popula以外の中に、<私><意識>の存在を知ることは不可能です。

    つまり、私Populaの<私><意識>と 他人の<私><意識>を比較できませんので、その間に「類似性」という概念が存在し得ません。

    私Populaは哲学指向があるわけではないので、哲学的解釈は正確ではありませんが・・・

    ●一元的な考え方
    私Populaにのみ<私><意識>があります。この宇宙=私Populaの<私><意識>
    従って、この宇宙は、私Populaが生まれ、<私><意識>が確立されるとともに存在し始め、やがて死に<私><意識>が消滅すると同時に消滅します。寝ているときは、この宇宙は消えています。
    ●二元的な考え方
    私Populaにのみ<私><意識>があります。そして<私><意識>の外に物理的な宇宙が存在します。
    私Populaの生死とは関係なく、物理的な宇宙が存在しています。
    ●多元的は考え方
    私Populaには<私><意識>があり、そして他人(ひょっとしたらあらゆる存在)にも<私><意識>があります。
    しかし、その<私><意識>はそれぞれ独立した空間に存在し、相互にその存在を知る方法はありません。共通しているのは<私><意識>の外にある物理的な宇宙のみ。

    例えば、多元的な考え方においても、それぞれの<私><意識>を比較する方法がありえませんので、私Populaの<私><意識>と他人の<私><意識>の間に「類似性の概念」が存在し得ません。
    私Populaの身体や脳の造りと他人の身体や脳の造りは類似性があります。従って、脳や身体の現象や振る舞いは極めて類似しています。
    にも係わらず、私Populaの<私><意識>と他人の<私><意識>は、類似性があるともいえない、無いともいえない。(★そのようなものに<私><意識>という名付けることが誤解を生みますので、本来は<ここに居る得体の知れないもの><得体の知れないものが感じてる実感>とでも言うしかないものです。)

    上記三つのどの考え方をにおいても、私Populaには、Popula自身の<私><意識>しか知り得ません。
    これらの考え方は互いに矛盾しているのではなく、「同じこと」を異なる(側面から)表現していると思われます。

    ロボットであろうと、人間であろうと、それに、あらゆる存在に対して、上記の三つの側面は同じことを言っているのです。
    2012年02月21日 12:24
  • Manuke

    いらっしゃいませー。

    えっとですね、次回アップ予定の続編レビューでも触れますが、本作の「ロボットには意識がない」という設定は、いわゆる哲学的ゾンビに相当するものなんですね。
    内面に「自分が存在する感じ」を持たないにも拘わらず、持っているかのように振る舞うもの、ということです。
    ジャスペロダスがこの哲学的ゾンビであった場合、彼の苦悩はただ見せかけだけのもので、ひたすら道化じみた機械ということになります。(ジャスペロダスには、ちょっと特殊な事情がありますけど(^^;))

    例えば、現時点でASIMOなんかは歩いたり喋ったり手を振ったりしますが、あれはあらかじめそう仕組まれているだけですから、ASIMOに自意識があると考える人はまずいません。
    それをもっと巧妙な仕掛けにしたら、相変わらずただのからくり仕掛けの延長でありながら、そこそこ知的に振る舞うようにすることもおそらく将来的に不可能ではないでしょう。
    (人工無能には、かなり会話ができるものが既に存在しますし)
    で、そのロボットに「私には意識がある」と主張させたとしたら……。
    これがジャスペロダスの苦悩です。
    ジャスペロダス本人は自分が存在するのだと必死に訴えますが、人間は誰一人としてそれを信じず、そういう滑稽な行動を取るよう作られたロボットとしか見なさない訳です。

    ここで自分自身を振り返ってみたとき、本当に私は哲学的ゾンビではないのでしょうか?
    実はこの「存在する感じ」がただの錯覚でしかないと考えると、色々な物事がシンプルになる気がするのです(^^;)
    2012年02月23日 00:56
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/252786882

この記事へのトラックバック