闘士

[題名]:闘士
[作者]:フィリップ・ワイリー


 本書『闘士』は、二十世紀中盤のアメリカにおけるベストセラー作家、フィリップ・ワイリー氏の処女長編です。
 ワイリー氏の著作としては、日本では『地球最後の日』等のSF作品が主に翻訳されていますが、本国ではどちらかというと一般小説やノンフィクション、映画脚本の方で知名度が高いようです。
 本書の重要性は、これがSFにおける「超人」を扱った最初の作品という点です(原作の出版は一九三〇年)。一説によると、最初にして最も有名なコミック・スーパーヒーロー『スーパーマン』(初出は一九三八年)は、本書をベースにして描かれたと言われていますが、これには異論もあるようです。(『スーパーマン』原作者のジェリー・シーゲル氏及び作画のジョー・シャスター氏は認めていない模様ですし、二人は悪の超人を主人公にした"The Reign of the Superman"を一九三三年に発表しています)
 いずれにせよ、「超常の力を有しながら、心はあくまで普通の人間」という構図を大きく取り上げた、マイルストーン的作品であることは間違いありません。そして、それ上の意味においても。
 生物学者である父の実験により、並外れた筋力をもって生まれたヒューゴー・ダナー。けれども、彼の人生には数多くの苦悩が待ち受けていたのです。

 米コロラド州インディアン・クリークの単科大学で生物学教授を勤めるアベドネゴ・ダナーは、化学物質による肉体の筋力強化に関心を持ち、独自に研究を続けていました。
 ある日、お玉杓子に行った実験により、アベドネゴは自分の研究が成功に至ったことを知ります。続いて、妊娠中の猫にその薬物を投与したことで、仔猫は驚くべき怪力を持って生まれてきました。サムソンと名付けられた仔猫は、小さな体ながら猛獣のように近隣農家の家畜を襲い、アベドネゴにより薬殺されます。
 その後、妻マチルダが妊娠していると知ったとき、アベドネゴは同じ措置を我が子に施すという誘惑に耐えられませんでした。かくして、異常なまでの怪力を持つ男の赤ん坊、ヒューゴー・ダナーが誕生します。マチルダはそれを知ると、子供を実験台にしたアベドネゴをなじりますが、やがてその怪力をあるがままに受け入れるようになります。
 子供時代に幾度かヒューゴーの怪力が世間に知られかけることはあったものの、幸いそれが人の記憶に留まることはなく、彼は聡明で頑健な少年へと成長していきました。ヒューゴーは自分の力が普通ではないこと、そして人に知られることが得策ではないことをその過程で学びます。
 高校を卒業するころ、狭いインディアン・クリークに飽き飽きしていたヒューゴーは、故郷を出てウェブスター大学へと進学することに決めます。そこは彼が今までの人生で知らなかった、洗練された社会でした。ヒューゴーは大学のフットボール・チームに参加し、力をセーブしつつも活用することでたちまち人々の注目を集めることになります。気の置けない友人達、自らの力を発揮する居場所、女性達との交流と、ヒューゴーは青春を謳歌するのです。
 しかし、フットボールの試合中、ヒューゴーに嫉妬したチームメイトのジェリイが顎を殴ってきたとき、ヒューゴーは一瞬正気を失い、その強大な力でジェリイを殺してしまいます。それは試合中の事故ということで彼が罪に問われることはなかったのですが、ヒューゴーは自分を許すことができず、ウェブスター大学を去りました。
 常人とは異なる自分の能力をどう扱うべきなのか分からないヒューゴーは苦悩し、自らの居場所を求めるのですが……。

 本書の注目ガジェットは、超人("superhuman")です。
 父アベドネゴが作り出したのは「筋力の力と神経のエネルギー放出("muscular strength and the nervous discharge of energy")」を実現する化学物質です。作中の台詞を見ると(「人間を蝗なみに強くしたら……そいつは、教会だって飛び越えられるんだぜ」等)、昆虫の力を参考にしているのかもしれません。(もっとも、昆虫が相対的に強い筋力を持っているように見える主因は、その体が小さいからなのですが(^^;))
 ヒューゴーが胎内にいる間に、アベドネゴは皮下注射でマチルダに薬を投与し、赤ん坊を超人へ変えてしまいます(母親には影響がなかったようなので、胎児にしか効かない?)。この効果は恒久的なものと思われますけれども、後天的な措置であるために遺伝しないことがアベドネゴの口より説明されます。
 ヒューゴーの得た能力は、あくまで強大な筋力と頑強な肉体というもので、空を飛んだり物質を透視したりという超能力はありません。しかしながら、落ちてきた四トンもある岩を易々と受け止めたり、数キロメートルもジャンプしたり、猛スピードで疾走したりするなど、その能力は常軌を逸しています。また、それらの力に耐えられるほど頑丈であるため、銃弾程度では傷を負うこともありません。(但し、ある事象に対する抵抗力は、常人とあまり変わらない模様)

 さて、冒頭で述べたとおり〈超人もの〉の元祖と言われる本書ですが、実のところストーリーはむしろアンチ・スーパーヒーローと言うべき内容です。
 ヒューゴーはスーパーパワーを持つものの、その内面はあくまで普通の人間です。自分の能力を知られることで知人の目に恐怖の色が浮かぶことを恐れ、苦悩する姿はまさに後のスーパーヒーロー物語に受け継がれた部分でしょう。超常の怪力を恐れられるという構図は、ギリシア神話のヘラクレスを初めとして数多く存在しますが、英雄でも怪物でもない等身大のキャラクタとして描いたのは『闘士』が最初のようです。
 けれどもヒューゴーの場合、その力を振るうべき敵も、守るべき愛する者も存在しません。つまり、彼は能力を完全に持て余してしまっている訳ですね。ヒューゴーは安住の地を求め、戦場、銀行、農場、果ては政治の舞台へと居場所を移しますが、そのことごとくで拒絶あるいは失望を体験することになります。(この辺り、ヒューゴーの追い詰め方がわざとらしくなっている印象も若干あります(^^;))
 特に興味深いのは、父アベドネゴのヒューゴーに対する期待です。彼は我が子を実験に使うようなマッドサイエンティストですが、無邪気にもその力は社会に役立つ(いわゆるスーパーヒーロー的な役割)はずだと信じ込んでおり、その期待がヒューゴーの重荷となります。結局のところ、ヒューゴーにとって力は何の役にも立たないばかりか、むしろ人生の邪魔でしかないものなのです。
 執筆時期を考えればあり得ないのですが、作品としては後年の安易な〈スーパーヒーローもの〉へのアンチテーゼに読めてしまうという、時間的な逆転が面白いですね。単なる〈超人もの〉の嚆矢というだけでなく、そうした意味でも時代を先取りしたお話だと言えるのではないでしょうか。

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