柔かい月

[題名]:柔かい月
[作者]:イタロ・カルヴィーノ


 本書『柔かい月』は、奇才イタロ・カルヴィーノ氏の手による異色短編集です。
 作品を読んで驚かされるのは、その表現方法ですね。様々な状況下における分析に、およそ小説に用いられるとは思えない手法が使われています。科学的・数学的なものだったり、あるいは漫画的な表現だったりと(^^;)
 その空想力だけでも十分に楽しいのですが、本書の物語はそれを通じて、思わず絶句してしまう程の視点の転換をもたらしてくれます。そこから生ずる価値観の激変はまさに衝撃、センス・オブ・ワンダーの名にふさわしい感覚です。

◇第1部 クフウフク氏の話

 謎の人物クフウフク氏(原文ではQfwfq)の語る四つの物語からなります。お話自体に繋がりはありませんが、いずれも奇妙かつ不可思議なのが楽しいですね。

◎柔かい月

 まだ地球の周りを月が回っていなかった頃の話です。
 調和のとれた物質からなる地球へ、異質な天体「月」が接近してきます。今まで惑星だった月が地球に捕獲され、衛星に変わろうとしていたのです。
 クフウフク氏は天文台へ赴き、シビルとともにそれを見守ります。やがて接近してきた月から、その構成物質が地球へと降り注ぎ始めるのでした。

◎鳥の起源

 鳥というものが存在していなかった頃のお話です。
 ある朝クフウフク氏は耳慣れぬ歌声を聴いて驚きました。今まで見たこともなかった翼を持つ生物、鳥が木の枝の上でさえずっていたのです。
 知恵者のウ(フ)爺さんはその存在が間違いだと言って鳥を追い払いますが、クフウフク氏はそれを追って旅立ちます。
 傑作なのは、本作の表現に漫画的な手法(コマの枠を引っ張る等)が使われ、しかも文章のみによって記述されている点です(^^;)

◎結晶

 遥かな昔、地球がどろどろの溶岩だった頃の話です。
 クフウフク氏とヴグが渾然と溶け合う世界をさまよっていたところ、あるとき溶岩の中に固体が生まれつつあるのを発見します。
 クフウフク氏はそれが成長し、巨大な一つの結晶世界が誕生することを夢見ます。一方、ヴグは小さな結晶が世界を埋め尽くすことを希望するのです。

◎血・海

 このお話は現代劇でしょうか。
 クフウフク氏はズィルフィア、そしてフマガッリ・ジェニーと共にチェチェレ博士の運転するフォルクスワーゲンに乗っていました。そしてクフウフク氏は、ズィルフィアと一緒に太古の海で泳いでいたことを思い起こします。かつて彼の外部に存在した海は、今なお体の内側に血液として流れていたのです。

◇第2部 プリシッラ

 第2部も同様にクフウフク氏が語り部となるお話です。こちらは遺伝子と細胞にまつわる、クフウフク氏とその想い人(?)プリシッラとの関わりを綴った連作です。

◎1 ミトシス(間接核分裂)

 クフウフク氏、今回は何と古代の海にたゆたう原初の細胞です(^^;)
 彼は当時、自分自身に対して熱烈に恋い焦がれていました。何故ならそのとき、世界にはクフウフク氏と彼以外の外部しか存在し得なかったからです。
 細胞分裂という現象を『主観的』な視点で描いた、とんでもないお話ですね。

◎2 メイオシス(減数分裂)

 このお話中では、クフウフク氏は多細胞生物になってます。
 彼と彼の愛するプリシッラとの関わりが、減数分裂、遺伝子、そして遺伝子乗り換えを通じて語られます。
 驚くべきことに、動物行動学者リチャード・ドーキンス氏が一九七六年に提唱された『利己的な遺伝子』のエッセンスがここに見て取れます。『柔かい月』の発表はそれより十年近く前のことですから、同書の影響は考えられません。
 無論これは単なる小説に過ぎませんけど、擬人化という形で誤解を受けやすい利己的遺伝子本来の意味をドーキンス氏に先立って考察し、物語として綴ってしまう作家イタロ・カルヴィーノ氏の洞察力には驚かされます。

◎3 死

 生命、そして死という概念が、二極化された性別という概念を核として語られます。
 前二作を受けた、まとめの節ですね。
 最後にはクフウフク氏とプリシッラ、行き着くところまで行っちゃってます(^^;)

◇第3部 ティ・ゼロ

 第3部は今までとは異なり、主人公「私」はクフウフク氏かどうかは不明です(『モンテ・クリスト伯』以外では明言なし)。本書の白眉となる怪作ぞろいです。:-)

◎ティ・ゼロ

 本書の原題は"TI CON ZERO"、すなわちこの作品が本来の表題作です。
 お話のシチュエーションは、サヴァンナの狩人が茂みから飛び出してきたライオンに対して矢を放った、まさにその瞬間です。しかしながら、ここからがカルヴィーノ氏の本領発揮ですね(笑)
 私Qと矢F、そしてライオンLの関係について、今その瞬間の時間を示すt0、未来を示すt1・t2・t3……、過去を示すt-1・t-2・t-3……に対する考察が行われます。
(『私』は記号Qで表されますから、もしかしたらクフウフク氏かも)
 時間というものに対する永劫回帰的な視点を含んだ、言わば時間軸で微分された物語です(^^;)

◎追跡

 『私』は自分の命を狙う追跡者に追われていました。二人はそれぞれ車に乗ったまま、都心の渋滞に巻き込まれてしまいます。
 ここで自分の乗る車を含む、車の列全体に対する思索が始まります。『私』と追跡者との位置関係、交差する道路の車に対する憎悪、そして追跡者を含めた自分達の列に対する仮の連帯感等々……(笑)
 『柔かい月』に含まれるお話では珍しいことに、本作にはオチがあります(と言うか、他の作品には明白なオチがありません(^^;))。個人的一押しの傑作短編です。

◎夜の運転者

 とある夜のこと、『私』は恋人のYと電話で諍いをし、絶縁を申し渡してしまいました。電話を切ってすぐにそのことを後悔した『私』は、住んでいるA市からYのいるB市へ、直接会って和解するために車で向かいます。
 しかし、夜の高速道路を走る『私』は、Yもまた自分と同じように車でB市からA市へと向かっているのかもしれないと気付くのです。しかしYは電話を切る間際に、同じくA市に住む恋敵のZと付き合うことを宣言していたため、ここで引き返す訳には行きません。
 夜の高速道路では車はライトしか見えず、行き交う車、そして後から来ている車がYやZの乗るそれかどうかを知る術はないのです。

◎モンテ・クリスト伯

 アレクサンドル・デュマ氏の名作『モンテ・クリスト伯』のパロディ……なんでしょうか? 微妙なところですね(^^;)
 主人公はエドモンド・ダンテス、悪人達の奸計により無実の罪を着せられ、モンテ・クリスト島にある城に幽閉されていました。城には同じく囚われの身であるファリア師がいて、脱出の方法を探っています。
 ただし、城の名前は原作の『ディフ城』ではなく『イフ城』です。ファリア師が穴を掘って外へ逃れようとすると、色々とおかしなことが起こります。
 ダンテスは牢屋に座してファリア師の探索を観察しながら、ファリア師が脱出に失敗したことに基づき外へ逃れる術を推理します。
 メタフィクションの風味を持った怪作です。

 本書に含まれるお話はいずれも異色のもので、果たしてレビューでその魅力をお伝えすることができるのか、はなはだ心もとないところです(^^;)
 実際、この『柔かい月』は万人向けとは到底言えないでしょう。人によっては、これを小説と認めることすらできないかもしれません。中には『ヤマ』も『オチ』も存在しないこともありますから。(但し、『イミ』はとんでもなく深いです)
 とは言うものの、それは本書が面白くないということではありません。ツボにはまれば非常に楽しめる作品群です。もっとも、そのエンターテイメント性はかなりあさっての方向を向いているような気がしますけど(笑)
 本書を気に入るかどうかは人それぞれですが、少なくとも一読の価値はある異色作です。読む者の固定観念を打ち砕いてくれることでしょう。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/22314652

この記事へのトラックバック


Excerpt: 1923年10月15日 - 1985年9月19日)は、イタリア文学の小説家、SF作家、幻想文学作家、児童文学作家、文学者、評論家。20世紀イタリアの国民的作家とされる。.wikilis{font-s..
Weblog: 小説耽読倶楽部
Tracked: 2008-02-02 16:21


Excerpt: 1923年10月15日 - 1985年9月19日)は、イタリア文学の小説家、SF作家、幻想文学作家、児童文学作家、文学者、評論家。20世紀イタリアの国民的作家とされる。.wikilis{font-s..
Weblog: 小説耽読倶楽部
Tracked: 2008-02-13 08:09