流れよわが涙、と警官は言った

[題名]:流れよわが涙、と警官は言った
[作者]:フィリップ・K・ディック


 鬼才P・K・ディック氏が描く、自分の存在が抹消されてしまった男の物語です。
 ある日突然、自分という人間に関する記録、そして人々の持つ記憶が消滅してしまう――そんなシチュエーションから始まる、奇妙で先の読めないストーリーです。もっとも、序盤こそサスペンスタッチですが、作品の本質はアイデンティティの崩壊や愛情の形、涙の意味といった人間の内面に重きが置かれています。

 歌手であり、TVショーに出演し多くの人間から注目を集める男性ジェイスン・タヴァナー。彼がショーの司会を終え、ゲスト女優のヘザー・ハートと一夜を共にしようと飛行艇に乗り込んだところ、艇に設置されていた電話が鳴りました。
 それはかつて、ジェイスンが目をかけてやったマリリン・メイスンからのヒステリックな呼び出しでした。マリリンは歌手志望の女性で、ジェイスンは彼女の肉体と引き換えにオーディションを幾度か斡旋したのですが、そのどれもが不首尾に終わっています。そのマリリンが、会いにきてくれなければ自殺すると金切り声で脅してきたのです。
 うんざりしつつもマリリンの求めに応じアパートへ向かったジェイスン。しかし、マリリンは部屋へやって来たジェイスンの胸元へ、凶悪なカリストの海綿動物を投げつけてきます。慌ててスコッチを振りかけ海綿動物を殺したジェイスンですが、まだ食餌管が体内に残ったままの状態で気絶してしまいます。
 ジェイスンが次に目を覚ましたのは病院ではなく、見知らぬ安ホテルでした。状況が分からないジェイスンがタレント事務所へ電話をかけると、彼の名前など聞いたことがないとエージェントからけんもほろろに通話を切られてしまいます。弁護士事務所に電話しても、やはり同じです。
 有名なTVスターであるはずのジェイスン・タヴァナーを知っている者は誰もいませんでした。しかも、紙入れからは身分証明書がなくなっていたのです。IDがなければ、その人間は大学構内から抜け出してきた学生もしくは教師と見なされ、強制収容所送りです。ジェイスンはこの危機を乗り切るため、偽のIDカードを偽造してくれる者を探すことにするのですが……。

 本書の注目ガジェットは、謎の状況を生み出す元となったもの――と行きたいところですけど、盛大なネタバレになってしまう上に、ストーリー的にそれほど重要でもない(理屈はとても面白いのですが(^^;))為、代わりにスイックスを紹介しておきましょう。
 スイックスとは、人為的に遺伝子組み換えを行うことにより改良された人間のことです。今風に言うと、いわゆるデザイナーズ・チャイルドでしょうか。一般人と異なる部分がある訳ではないものの、肉体的・頭脳的に優れ、外見も美しいようです。作中人物では、ジェイスンとヘザーがこれに該当します。
 スイックスはディル・テムコという人物によって創造されたもので、人数はそれほど多くありません。その存在が不道徳という訳ではないようですが、人々のやっかみの対象となることから、彼等は通常自分がスイックスであることを隠しています。
 自分達が選ばれた特別な存在だという驕りから、スイックスは非常に傲慢で、スイックス同士ですら仲間意識を持ちません。それに加え、ジェイスンは他人に対して共感したり愛情を抱いたりする心が欠如しています(彼個人の問題なのか、スイックスの形質的なものなのかは不明)。ディック氏の別作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場する、人間そっくりなのに共感能力のないアンドロイドに近い存在なのでしょうか。

 本作にはジェイスンと対になるキャラクタとして、警察本部長フェリックス・バックマンというもう一人の主人公が登場します。題名の『流れよわが涙、と警官は言った("Flow My Tears, the Policeman Said")』にある「警官」はバックマンを指しているわけです(「流れよわが涙」は〈涙のパヴァーヌ〉という曲に付けられた歌詞から)。
 バックマンはかつて警察上層部で執行官を務めていた一人でしたが、権力闘争に破れ本部長に格下げされたようです。頭脳明晰なエリートではあるものの、あまり偉ぶった様子はありません。かなり変わり者の妹アリスにいらだちと愛情を覚える、複雑な人物です。
 一方、突如として有名人から無頼の男へと理由も分からず転落したジェイスン・タヴァナーは、「何故」とか「どうやって」という疑問にふけることなく行動を始めますが、これは彼が実用主義者だからではなさそうです。実際のところ、ジェイスンは空っぽの人間であり、他人からの評価を失ったとき、彼のアイデンティティは文字通り揺らぐことになります。個人的に、このジェイスンの矮小さにはどこか惹かれるものがあります(笑)
 対称的な二人の視点から描かれるストーリーと、意味深な結末。非常に深みのある物語です。

この記事へのコメント

  • nyam

    こんにちは、nyamです。

    ディックの作品からベスト3を選ぶとすると、「ユービック」「高い城の男」と、これになります。

    権力者がいいひとなのは、すこし彼の話では珍しいかなあ。でも、好きな話です。

    2009年08月08日 12:04
  • Manuke

    バックマンはかなり複雑な人物ですね。体制側にありながら柔軟な思考を持っていますし、逆に手段のためなら無辜の人間を犠牲にするようなドライな部分もあるようです。
    ジェイスンのような小者がかなう相手ではないのかも(^^;)
    2009年08月09日 00:59
  • 手もふ

    スイックスは何かのsf用語なのかと思ってましたが6を本格的な発音で表記しただけだったんですね。
    2015年02月19日 01:30
  • Manuke

    ディル・テムコが生み出した6番目のグループ、という意味のようですね。
    (ネクサス6型に引っかけていそうですが)
    原文では"a six"とか"sixes"と表現されるようですけど、単なる数字を普通名詞として使うのは英語として奇妙さがあったりするのかも。
    2015年02月21日 00:32
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