結晶世界

[題名]:結晶世界
[作者]:J・G・バラード


 一九五〇年代において黄金時代を築いたSF界ですが、一九六〇年代に入るとその人気に翳りが出てきます。これに対してSFの新たな形を模索したのが、当時ニュー・ウェーブと呼ばれたムーブメントです。
 ニュー・ウェーブはSFというジャンルの持っていた殻を打ち破る試みであり、外宇宙ではなく内宇宙に軸足を置き、人間を描くことを重視します。有り体に言ってしまえば、従来より文学性を意識したものという傾向ですね。
 ニュー・ウェーブは最終的に純文学へと近づき過ぎたことが災いし、娯楽性を失って読者離れを引き起こしてしまうことになり、一九七〇年代には自然消滅します。しかしながら、その過程でSFというものの懐を広げたことも事実であり、以後の作品に多大な影響を与えています。
 本書『結晶世界』は、ニュー・ウェーブ世代の旗手J・G・バラード氏が描き出す、世界の変貌を扱った物語です。「水晶化する世界」という激動的な題材を用意しながら、あくまで登場人物同士の関係とその心の内面をメインに据えているのが肝です。

 フォート・イザベル癩病院(おそらくガボン共和国)の副院長エドワード・サンダーズ博士(原文には"Dr."とありますが、サンダーズはお医者さんなので、医師または先生の方が適切?)は、かつての同僚とその妻に会うため、カメルーン共和国へやってきました。
 彼がそこを訪れたのは、クレア博士夫妻から手紙を受け取ったためでした。手紙には夫妻の近況が書かれているだけでしたが、何故か検閲され、住所が切り取られていたのです。その訳を知り、二人に会って無事を確かめること――それが表向きの理由でした。
 しかしサンダーズの本当の動機は、不倫関係にあった妻スザンヌ・クレアを忘れられなかったからだったのです。
 マタール河口の港に到着したサンダーズは、そこで目的地であるモント・ロイヤルへの通行が封鎖されていることを知りました。しかし、その理由が何なのかを彼に教えてくれる者はいません。
 マタール港に滞在中、サンダーズは女性ジャーナリストのルイーズ・プレと親密な関係になりました。そして行動を共にするうち、二人はモント・ロイヤルで何が置きつつあるのかを知ることになります。
 それは、あらゆる物体が水晶に覆われていき、生と死の境界が曖昧になる現象――水晶化でした。グロテスクさと美しさが同居するその変化に、人々は翻弄されていくのです。

 本書の注目ガジェットは、水晶化("crystalize")です。
 水晶化とは、あらゆるものがゆっくりと水晶状の透明な結晶に包み込まれていく現象を指します。寒冷地における樹氷のようなイメージでしょうか。形成された水晶に見えるものは通常の物質ではなく、時間そのものの有り様が変化したことにより出現するものではないかと作中で推測されています。
 水晶化の進行する地域内に存在するものは、生物・無生物を問わず結晶で覆われていきます。また、流水や宝石との接触により、水晶化の進行を多少とも妨げることができるようです。
 この水晶化はモント・ロイヤルのみで起きているのではなく、全宇宙的に進行しています。物語が進行していくと、人工衛星や、果ては遠くの銀河までも水晶化していることが観測されるようになります。
 興味深いのは、水晶化した生物は死んでしまうのではなく、生でも死でもない状態になることです。サンダーズの専門である癩病(ハンセン病)と絡め、人の死生観そのものが変化を迫られる訳です。

 ニュー・ウェーブSFは文学的あるいは内省的という少々捉えどころのないグループ分けですけれども、本書での水晶化に対するスタンスから大まかな傾向を見て取ることができるかもしれません。
 『結晶世界』における水晶化は前述の通り宇宙規模の現象ですが、作中ではそれ自体に対してのアプローチはほとんど行われません。水晶化が何故起きたのか、世界はこの後どうなっていくのかという疑問は解消されないままです。主眼はあくまで、サンダーズとその周辺の人々の方にあります。
 これがハードSFであれば水晶化現象の究明に矛先が向けられるでしょうし、破滅テーマであれば水晶化により滅びゆく世界を描くのでしょう。仮にスペースオペラだったら、水晶化から世界を救う英雄、という構図になるのかもしれません(笑) いずれにしても、そこに見られるのは個を超えたグローバルな視点です。
 ところが、本作の主人公はただ水晶化の引き起こす事件に巻き込まれるだけで、世界に対して働きかけるような力を有しませんし、あまり行く末に関心も持っていないようです。その目線はごく卑近なものに留まり、登場人物達はメロドラマ的なストーリーを織り成していきます。舞台の外では水晶化現象の研究が行われているらしい描写もあるのですが、本筋には関ってこないのです。
 しかしながら、SF的ガジェットと物語の関連性が薄い訳では決してありません。水晶化による世界の変貌はサンダーズの近辺に干渉し、意識の変革を強いることになります。
 このように、グローバルよりプライベートな視点に重きを置くのがニュー・ウェーブの特徴の一つと言えるかもしれません。ハードSFでは鳥瞰視点が重視され、結果として個人が軽視される傾向にありますが、この逆の方向性でしょうか。
 また、情景の美しさも特筆すべき点ですね。動植物が、建物や乗り物が、そして人間が透明な水晶の中に閉じ込められていく情景はおぞましくも美しく、読者を魅了してくれます。ラストの鮮やかさも含め、とても味わい深い物語です。

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