ドゥームズデイ・ブック

[題名]:ドゥームズデイ・ブック
[作者]:コニー・ウィリス


 本書は時間旅行による過去への訪問を核に、二つの時代での伝染病蔓延を同時進行的に描いた物語です。
 ジャンルとしては時間SFに属すると思われますが、いわゆるタイムマシンはほとんど作中で描写されませんし、タイム・パラドックスはそもそも起こらないものと設定されています。時間旅行はあくまでストーリーを成り立たせるバックボーンに過ぎず、主となるのは中世イギリスにおける暮らし、そして人間同士が織り成すドラマにあるわけですね。
 特徴的なのは、未来側の物語もほぼ同等のウェイトを占めているところでしょうか。こちらは現代の医療におけるアウトブレイクをややコミカルなタッチで描いていきます。
 中世史科の学生キヴリンは、中世イギリスの暮らしを調査するためタイムマシンを使って十四世紀を訪れますが、目的時間へ到着した直後に病に倒れてしまいます。彼女は果たして無事現代へと戻ってくることができるのでしょうか。

 二〇四五年末のオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジでは、ある計画が進行していました。決してタイム・パラドックスを引き起こさないタイムマシン、ネット("net")を使って歴史家を一三二〇年のイギリスへと送り込み、その時代の調査を行おうというのです。その調査員として、かねてから中世行きを希望していた学生キヴリン・エングルに白羽の矢が立てられました。
 しかし、そもそもこの計画は史学部長ベイジンゲームがクリスマス休暇で不在のときを狙い、学部長代理ギルクリストが実績を作るためにごり押ししたものでした。本来行うべき予備的なテストや調査はないがしろにされていたのです。
 ベイリアル・カレッジ教授でキヴリンの事実上の指導教授ジェイムズ・ダンワージーは、この準備が杜撰なことに加え、キヴリンのような若い娘が野蛮な時代へ送られることに懸念を表していました。しかし、ギルクリストはダンワージーの心配を杞憂と一蹴し、計画を実行してしまいます。
 キヴリンが正確にどの時間・どの場所へ送り届けられたのかを示す計算結果が出るには少々時間がかかるため、ダンワージーはパブでその知らせを待つことにしました。そこへネット技術者のバードリが冷静さを失った様子でやってきて、「なにかがおかしい」と告げます。ところがバードリはそれが何を意味するのかを説明する間もなく、気絶してしまうのです。
 バードリが倒れたのは感染症のせいでした。この時代、世界はパンデミック(汎流行病:世界的な感染爆発)を経験しており、たちまちオックスフォード周辺は隔離されてしまいます。そしてダンワージーはキヴリンが無事現地に到着したか確認することもできないまま、感染症が広がるのを防ぐために大わらわになってしまうのです。
 一方、十四世紀へと到着したキヴリンにも異変が起きていました。キヴリンは野盗に馬車を襲われた貴婦人に扮し、道を通りがかった人に助けてもらう手筈だったのですが、到着後程なく熱病に冒され、倒れてしまったのです。出発前にワクチン投与や免疫強化を行い、中世の病気に感染するはずのないキヴリンでしたが、この病のせいで彼女の計画は出だしから狂ってしまいます。
 その症状がネット技術者バードリと同じであることを、キヴリンも、そしてダンワージーもまだ知りません。

 本書の注目ガジェットは、時間旅行を行うための装置・ネット――と行きたいところですが、作中にほとんど描写がありません(^^;) 代わりに、キヴリンが大いに頼ることになるインタープリタを取り上げましょう。
 インタープリタとは、使用者の体内に埋め込まれた自動通訳システムです。"interpreter"は『通訳』の意味ですから、まさに文字通りの機能を果たすものですね。キヴリンの理解し発音する近代英語と、十四世紀に使われていた中期英語を自動的かつリアルタイムに翻訳してくれるわけです。但し、これは機械的な装置ではなく、「化学的な統語法・記憶強化システム」とされています。
 具体的にどう働いているかの説明はありませんけど、化学物質に翻訳のような高度な機能を持たせるのは困難そうですし、さりとて作中の技術はナノマシンを生み出せるほど未来的ではないので、おそらくは処置対象者の脳の一部を通訳用途に転用しているのではないかと想像されます。
 動作としては、当人が耳で聞いた音声が途中で横取りされ、翻訳した言葉で置き換えられたものが意識へ伝達されます(通訳を行う都合上、若干のディレイがある模様)。出力側も同様に、翻訳された結果が口から出てくるようです。キヴリン当人は近代英語で会話しているつもりでも、他人から見ると中期英語を理解し使っているようにしか見えないという状態ですね。
 基本的にはあらかじめメモリへ蓄えられた単語情報を元に翻訳を行いますが、登録されていない言語も会話から情報を収集することにより次第に通訳可能になるという、かなりインテリジェントなシステムです。
 もっとも、このインタープリタは完全に自動化されていて、コントロールするためのインターフェースは用意されていないようです。このため、翻訳する/しないを自分で選べない、翻訳ミス時に原語を知る術がない、自分が何語を話しているのかも分からない(文法的に正しい言葉を使っているのかすら不明)という難点があります。技術的観点から見ると、この仕組みにはかなり問題があるような気がするのですが……(^^;)

 本書の題名『ドゥームズデイ・ブック("Doomsday Book")』は、キヴリンが手首の中に埋め込んだ音声記録装置に付けた名前です。これは世界初の土地台帳"Domesday Book"(綴りは違いますが発音は同じ)と、最後の審判の日("Doomsday")のダブルミーニングになっています。
 このうち"Domesday Book"は、イギリス王室の開祖・征服王ウィリアム一世が十一世紀に作らせたもので、課税の為に民の財産を細かく列挙した記録ですね。例えば、「○○教会の村では領地が××ハイド(区画の広さの単位)、犂が△△組、農奴が□□人、小作農が☆☆人、豚が◇◇頭、騎士のための馬が▽▽頭……」といった調子です。
 この文書、当時のイングランドに住む人々の暮らしを知る重要な手がかりだと言われています。イギリス国立公文書館によると、町は小さくまばらで、土地の多くが人の住まない森林や荒れ地、大多数の人々は農奴や奴隷だったことが分かるそうです。
 そうした研究内容は本書の中にも活かされており、教科書に記載された無味乾燥なものではない当時の人間のリアルな生活が、現代人の視点から入念に描かれている部分は要注目です。
 もう一つの"Doomsday"("Domesday Book"の呼び名自体、これが語源)の意味である「最後の審判の日」の方は、十四世紀への旅行には恐ろしいことが待ち受けているだろうとダンワージー教授に警告されたキヴリンが面白がってちなんだものですが、彼女はその言葉以上の体験をすることになります。しかもこの部分、フィクションではあるものの史実をある程度ベースにしているわけで、後半の壮絶さと悲壮感は相当なものです。

 一方、キヴリンを送り出した後に二十一世紀に起こるハプニングでは、ダンワージーが主役を務めます。彼はキヴリンの無事を案じながらも、感染症の対応に追われることになります。
 前半はかなりコミカルなタッチで、休暇で釣りに出かけたまま消息不明の学部長ベイジンゲーム、自己保身の塊である学部長代理ギルクリスト、遺跡発掘しか頭にない考古学者モントーヤ、女の子と仲良くすることにご執心の学生ウィリアム・ギャドスン、その母でやかまし屋のミセス・ギャドスン、アメリカから招かれた鳴鐘者達、自分では何一つ判断できないダンワージーの秘書フィンチと、誰も彼もが自分勝手に行動し他人の話を聞きません(笑)
 オックスフォード大学は独特のカレッジ制度を取り、ブレイズノーズ・カレッジの学生であるキヴリンの正式な指導教授はダンワージーではありません。このカレッジ同士の確執が伺えるのも興味深いところです。
 後半に入ると状況が深刻になり、医療サスペンスの色彩が強くなります。これは十四世紀側でも同様ですが、本書のストーリーからは医療現場に携わる方々への敬意を感じますね。感染症を治癒すべく激務に身を投じる医師メアリ・アーレンス(及び十四世紀のあるキャラクタ)は、献身的で立派な人物として描かれます。

 本作はSFではあるものの、いわゆるSF的設定はあまり重視されていないようです。時間旅行が歴史を変化させることはないと定義されているので、タイム・パラドックスにまつわる考察も特にありません。一応、物語中盤である事実が明かされるわけですけど、それまでの部分でさんざん言及されているので意外性はないに等しいと言えるでしょう(^^;)
 作品としての真価は、その文学性にあります。二十一世紀と十四世紀でそれぞれ織り成される人間ドラマは読む者の心を強く打ちます。現代人の視点を中世ヨーロッパに持ち込むというSF要素と、残された資料から類推される現実の物語を見事に融合させた名作です。

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